自分が出来ること

戦争について、

「日本は他の国と違う意識がある」

と海外の人が言っていたのを聞いたことがあります。

 

なんとなくですが、敗戦国ならではの意識と、日本人の国民性というか、性格とかが関係しているのかなと。

敗戦国は世界中にありますが、でも、広島長崎は世界中でただひとつで、
戦争は悪いこと、悲しいこと、

そして、わたしたちは唯一の被爆者だと、そういう意識がある。
(唯一のとまでは言ってないか・・・。)

 

個人的に思うのは、日本は「唯一の被爆国」ではない。

このトビウオのぼうやを見ても分かるように、マーシャル諸島、太平洋の島々、アフリカ大陸、海洋まで直接的ではなくとも世界中が被爆しています。

 

栗原貞子さんの手記を引用します⇩⇩⇩

原爆を経験してさえも、
「人体への心配は全くありません。多少植物が学問的に影響を残している程度で、決してご心配はいりません。」
と、天皇を前にして答えた広島県知事。

1975年、アメリカから帰国した天皇は「原爆投下はやむを得なかった。」戦争責任について「わたしは文学方面のことは勉強していないのでお答えできかねます。」と答弁した。

こういった記事を読んでいると、素直な(?)わたしは、そうなんやー。と感じてしまうのですが、何事も疑ってかかるようになってきてしまっているのが最近の風潮。
例えば科学者なんかはお金がないから資金のために偽論文を作成したりするそうなので、いや別に栗原貞子さんをどうこうってことではないんですけど、
当時の背景とか、歴史とかを踏まえた上での判断が大事だとは思います。

兎にも角にも、こういう証言はとても貴重だと思うので、
もうちょっと引用します⇩⇩

 

広島は文学不毛の地と言われるが、それ以前に思想の不毛の地である。政治に作用され、従属されたのである。

広島は加害意識の欠落した被爆者意識の不思議な街。日本のどこに南京虐殺の記念碑など自国の加害を反省する記念碑があるだろう。
原爆資料館の展示に対して、被爆前史としての加害コーナーは無用とされ、拒否されている。

戦争体験の無い世代が天皇の戦争責任を追及しているのに対し、戦中、戦前派が沈黙していたのは何故か。
戦中・戦前派にとって戦争体験とは、天皇体験であった。
昭和6年から敗戦にいたる15年間、うちつづく軍人の怒号と、
「畏れ多くも」と天皇の枕詞を言われる時、反射的に直立不動の姿勢をとらされた。

 

こういった記事を読んでいると、日本人特有の沈黙文化、閉鎖的内向的文化はいつから続いているのか分からないけど、根強いものがあるなと。

 

ちょっといつのことなのか分からなかったのですが、1970年代かな?

平和都市広島を名乗り8月6日に慰霊碑前で平和宣言を世界に向かって宣言し、
10月31日の自衛隊開設記念パレードで閲兵する広島市長の現実。

骨肉を埋めた市街を、自衛隊の戦車でじゅうりんさせる
原爆を体験した被爆者であるならば、あらゆる現象に対しての選択が、
反原爆、反戦争となって現れ、自衛隊のパレードを許すような結果は生まれなかったはずである。

 

 

栗原さんには批判も多かったと思います。

当時自らも被爆者であるにも関わらず、日本は悪くないのか、自分たちだけが犠牲者なのかと訴え続けてきたわけですからね。

 

「私も被爆者で戦争には反対ですが、自衛隊がなければ朝鮮や志那に馬鹿にされ、戦争をしかけられますよ」
と言われた。
こういう意見によって、広島市長の8月6日と10月31日の精神分裂症は支えられている。

今日、広島長崎を忘れた各免疫、放射能マヒの現状を許してきたのは、私たち被爆者の無力であり、被爆国民の責任である。

 

自国を非難しているのではなく、戦争、敗戦、被爆、そういった経験を通して、これから生きていくこと、未来に繋げるもの、日本に、世界に対して自分が出来る事を伝えてくれているんだと思います。


1945年8月6日に広島に暮らしていながら、それだけのことを発信できるエネルギーはどこからくるのか。

 

わたしは戦争というと、いつか何かで見たおじいさんのおはなしを思い出してしまいます。 

「まだ戦力にならない幼い僕は、母親と共に兄の乗った戦闘機に手を振っていた。

兄は大きく一度旋回して、徐々に見えなくなった。」

たったこれだけの言葉で戦争がどんなものか分かりますね。

 

「兄は、わたしと母に「さよなら」と言ってくれたんだと思う。」

そのおじいさんの戦争の記憶です。